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α-ケンタウリ星通信

α-ケンタウリ星からお送りしています。

『逆行の夏』(ジョン・ヴァーリイ)

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 ジョン・ヴァーリイ傑作選である。ヴァーリイを知らなかった僕は、そのとてもきれいな表紙と円城塔の推薦文を一目見て即購入したわけだが、非常におもしろい短編、というよりは中編集だった。また、今回も今回とて普通に内容に触れるので、未読の方はご注意ください。

 

 ヴァーリイの代表シリーズである<八世界>シリーズから、『逆行の夏』『さようなら、ロビンソン・クルーソー』の二編に加え、『バービーはなぜ殺される』『残像』『ブルー・シャンペン』『PRESS ENTER■』 が収められている。読んでいてまず感じたのは、この六編どれをとっても「人間の身体」がお話で重要な役割を担っていることだ(ただ『PRESS ENTER■』は少し違う)。

 

 『逆行の夏』

 性転換が当然になった社会の話。テーマがあるとしたら「性」と「家族」で、このお話にはなるほどなあと思わされる。こんな簡単に性を変えられる社会だからこそ、性によらないものが見えてくるってことなんだろう。それにしても、水銀洞の描写がとてもきれいだ。めちゃくちゃ気に入っている。

 

 『さようなら、ロビンソン・クルーソー

 老いから逃げた主人公ピリが、逃げている自分と決別すると同時に、逃げる前の自分に戻るという不思議な構図の話。途中の、精神は高齢の老人が、童貞みたいに初々しくセックスに及ぶというシーンはともすれば滑稽でもある。

 

 『バービーはなぜ殺される』

 バービーに属する者はみな容姿が同じであるだけでなく、「わたし」と言えないなど、徹底した個性の喪失が本当に不気味だ。そして殺人事件の起きた理由は、個性を持つことをフェティシズムにするものの制圧だったという。個性を失ったからこそ、そういうフェティシズムを持ったというのは、なんとも皮肉。

 

 『残像』

 これはすごい話だ。本当に。全盲全聾の人のためのコミュニティを訪れたある男の話を描いているのだが、そこでのやり取りを、文字通り言葉で表現できないものを表現している(感想すら言葉にしづらい)。ヴァーリイは本当によくこんなことを考えたなと思う。男がピンクに目と耳を潰される最後のシーンは、ただ単に怖いと感じたが、これはいわゆるラブシーンだとも思える。ハリウッド映画によくある、主人公とヒロインが夕焼けをバックにキスするのと、本質的にはなんら変わりないのかもしれない。非常に官能的で、圧巻だった。

 

 『ブルー・シャンペン』

 今話題のVRをさらに拡張したような、経験したときの感情までも得られるテープをめぐる話。ただ恋に落ちた瞬間の感情はテープにできないようだ。体が不自由な女優ギャロウェイは、簡単に言うとテープを利用したAV女優みたいなことをしているわけだが、クーパーとの恋に落ちた瞬間を売り飛ばす。なんというか、クーパーは典型的なダメ男みたいだ。二人の関係が、非常に苦々しい。

 

 『PRESS ENTER■』

 これだけ少し異質で、テクノ・スリラー風。ビクター、リサ、オズボーンがコンピュータの画面に何を見てあんなことになったのかはっきりとはわからないのだが、きっとネットワークに対し僕らが感じてしまう根源的な恐怖、みたいなものだと思う。

 

 さて、感想は以上だが、今回はあらすじみたいなものを極力短くした。個人的にはなるべく書かないほうが気楽でいいな。これからもこうしよう。ネタバレしてほしくない人は、こんなブログ見てないでアマゾンにでも飛んだほうがいいよ。ところで、ヴァーリイの<八世界>シリーズ全短編は創元から出ており、最近長編の「へびつかい座ホットライン」も早川から出たらしい。とてもおもしろかったから読もうと思う。

 

 終わりに、身体とSFについて

 SFは身体をテーマに扱うことがよくある。しかしふと、ヴァーリイは少しそれらとは違うのではと思った。というのは、(これは僕の感覚なので実際にはどうかは定かではないが)普通身体をテーマにするとなると、SFは「身体の疎外」を扱いがちであろう。例えば、身体を機械じかけにして脳(あるいは精神、というか意識というか)だけ残し、これは人間かアンドロイドか?みたいな(『イノセンス』とか)。一方でヴァーリイの作品群では、確かに人間の身体性は重要なテーマにはなっているが、あくまで身体が身体のまま変化している。身体を捨てて記憶をネット上に保存して延命したり、ヴァーチャル・リアリティ内のアバターとして、現実の自分と異なる自分を生きていたりするのでもなく、技術を用いて実際に身体を若返らせたり性を転換したりするのだ。そう考えると、書かれたのはだいぶ昔ではあるけれど、今までのSFより新鮮な感じさえする。果たしてヴァーリイがこれらを書いたこの時代における、身体をめぐる思想の潮流がどんなだったか僕は知らないけれど、少なくともヴァーリイは、人間の身体というものを重く見ていたようである。しかもおかしなことに、これもまた僕個人の感覚なわけだけど、身体を機械化したりするSFよりもよっぽど「身体」という概念をぶち壊しているようにも思える。つまり、「身体の疎外」系が「身体というものは人間にどれだけ寄与しているのか?精神との関係は?」という、一個人内部のことを主に描くのに対して、ヴァーリイが描いたのは「身体がこんな風に変わってしまったら、人々はどうなってしまのか」という、身体変化による社会そのものの移り変わりである。もちろんどちらのタイプもこれからたくさん読みたいけれど、近年ヴァーリイみたいな作品が目立っていないのは、もしかすると僕らの身体がアンドロイドの夢を見ているからかもしれない。良い感じのオチがついたからそれではまた。

 

                          (表紙画像は早川書房HPから)