α-ケンタウリ星通信

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『世界の涯ての夏』(つかいまこと)

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 夏と言われると夏休みを思うのは人間の性である。さして友好的でもない「夏休みの友」と格闘したり、自由研究で去年やったテーマを少し変えてやったり、適当に書いたはずの読書感想文や作文が、大人の設けたよくわからない賞をもらってしまったり、友達とプールであそんで家に帰り蚊取り線香のにおいをかぎながら寝てしまって、夕飯に呼ばれて目を覚ましたりしがちなアレである。

 こんな感じで話の枕を展開しながらこの小説の感想につなげていくつもりだったがうまい運びができなそうなので段落をわけよう。

 

 地球はすでに<涯て>という異次元の存在に侵食され始めている、という設定のSF小説。この「すでに~され始めている」というのが大事だろうと思う。<涯て>の侵食は非常にゆっくり進むので、人々は世界の終わりがすぐそこにあるという状況に慣れてしまっているのだ。それゆえに、作品では本当に世界が滅びているのかと思うほどゆったりとした雰囲気が漂っている。人々の一種の諦観が表れているように感じる。

といっても人は(というか世界は)ある抵抗はしていて、それは<涯て>を人の脳の利用により演算処理してなんとかかんとかということらしい。話はそのシステムで重要な役割のタキタという老人が少年時代の記憶の中である少女と出会い、会社からゲームキャラクタのおっぱいのサイズをただ大きくしろという理不尽を押し付けられる3Dデザイナのノイは、タキタにその少女のモデルを依頼され、世界が<涯て>についてなにやら語る、という3つのパートからなっている。めんどくさいからここからはネタバレ全開である。

 

SF内容の疑問

 以下の疑問はもしかすると野暮なものかもしれない。ので、あまり本気じゃないメモ程度に書く。正直言って「祈素」の成り立ちというか歴史がよくわからなかった。そこは単に世界がそうしただけでいいのかな。そもそも世界がいろいろ思考(?)するというとこも。人は、人の器官で例えるなら世界にとって脳みたいなものらしいが、そうなると人の集合的な意識が世界の意識ということでいいのかな?まあ脳だけが必ずしも人の意識と密接につながってるかなんてわからないから何とも言えないか。あとは「ミウ」について。少女ミウは結局<涯て>のエージェントみたいな感じだが、だとしたらタキタの同級生と同じ名前だった理由は?タキタが脳内で無理やり(彼の少年時代には本当は存在していない)その少女の存在を保証するため?それとも<涯て>側の計らいなのか?母の名前も似てたというのも気になったけどミスリードってやつなのだろうか。

 

おわり

 上の疑問はあったけどもちろんおもしろかった。強いインパクトで印象に残るって感じではなくて、じんわりとおもしろいな、と思う。もうちょっと長いと上の疑問にもよりわかりやすいようになったのかもしれないけど、よく考えるとこの小説はあまり長くないほうがいいかもしれない。あまりふれなかったが、ノイが世界の終わりをまえにして、どうしておれはおっぱいのサイズなんかいじってんだ・・・?と葛藤しているさまも滑稽っちゃ滑稽ではあるが、非常にリアルでもあるような気がする。僕たちはたいてい、くだらないことにこそ悩んでしまう。そういうものだろうと思う。全体に漂う終末感もとてもよい。滅びというとやはり冬のイメージが強いけど、こんなやけに静かな夏というのも、世界の終わりにはぴったりだなと感じる。