α-ケンタウリ星通信

α-ケンタウリ星からお送りしています。

『BEATLESS』(長谷敏司)

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 その笑顔を僕は信じる。君に魂がなかったとしても――。

 人型のロボットhumanoid Interface Elements、通称hIEが普及し人間の生活の大部分をhIEが支えている世界。高校生の遠藤アラトはある日"レイシア"と名乗る一体のhIEと出会い、その言葉を信じてオーナーになる。しかしレイシアは、そのあまりに強大な性能ゆえ厳重に管理されている超高度AIが産み出した≪人類未到産物≫(レッドボックス)だった。レイシアとともに暮らし、人間を超える知能の存在との関係を考えるようになったアラトの前に、レイシア同様≪人類未到産物≫であるアンドロイドたちが現れ、レイシアと争い始め、人類を脅かす大災害へと発展していく。その果てに、人類がhIEとの関係に見たものとは?すべては、少年の選択に委ねられた。

 

 今回は趣向を変え、自分であらすじを書いてみました。この『BEATLESS』ですが、人と、人にとてもよく似たモノとの新たな関係性を探る、素晴らしい小説でした。設定はありふれているし、話の展開もいわゆるライトノベルっぽさが色濃いですが、このような、科学技術で変わっていく人の世界を描く小説、これこそをSFというのだな、と僕は思いました。

 この小説のラストは、ある側からみればhIEに人間が支配されることを許したディストピアとも言えるし、一方でhIEと人間が共生のため歩み寄ったハッピーエンドだとも言えます。どちらだと考えるか、それはこの小説の主人公アラトのような人かどうかによるのかもしれません。

 さて、果たして僕らはそのどちらでしょうか?

 僕は、そしてあなたは、魂のない少女の笑顔を信じることができるでしょうか?

 などなど、考えさせられますね。

 

 

 


BEATLESS (livetune) - Dreaming Shout feat. NIRGILIS

(アニメ化したらレイシアがモデルの仕事で東京を大規模アナログハックする場面で流れるとすごいよさそう……)

 

『未來のイヴ』(ヴィリエ・ド・リラダン)

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 『屍者の帝国』に出てくる「ハダリー」の元ネタがこれらしいので読みました。まず歴史的仮名遣いなので少し読みづらい。また、言葉自体も古めかしく、すぐには意味のわからないものが多く、それもきつい。しかし、それは逆に、この小説がとてつもなく昔に、人造人間(現代ではアンドロイドと呼ばれるのが普通ですが)と人間の関係性について描いていたということを示してもいます。1886年に書かれたというから、驚きです(よく考えると、『屍者の帝国』の舞台は19世紀末であったから、それはそうか)。

 この小説のすごいのは、異常なくらい緻密な人造人間ハダリーの構造の説明で、一部読み飛ばしてしまいましたが、著者は機械工作が趣味だったようです。

 また、エジソンのキャラもよかったです。科学に従事しているが、盲信はせず、科学に縛られてはならないことがあることをわかっているという感じの人物(実際のエジソンがどんなかは知りませんが)。

 最終的に主人公がエジソンのつくったアンドロイドを愛し、二人は幸せに暮らしましたとさ……で終わらず、意外にも(?)バッドエンドだったのにも驚きましたね。なぜこのように物語を終わらせることにしたんでしょうか?

 アンドロイドと愛し合うというと、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』、あるいは『ブレードランナー』を思い出します。まさにこの小説は、これらアンドロイド小説の原点だと言えるでしょう。

『競売ナンバー49の叫び』(トマス・ピンチョン)

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 すさまじい小説だった。これを読んだのは少し前のことで、話の内容に関する記憶はやや薄れかけているのだけど、それでも読んでいるとき、読み終わったときの「なんなんだこれは」という強い印象はまだ残っている。

 

 ある日若妻(なんかエロい!)のエディパ・マースは、昔の恋人だった大富豪が死んだこと、その莫大な遺産を託されたことを知り、何かに導かれるようにして調査に乗り出す……という話。この小説のすごいところは、そして前述の「なんなんだこれは」と思わせる要因は、これでもかと登場してくるたくさんの意味深な暗喩たちだ。それは元役者の弁護士であったり、エディパが赴くあらゆるところに現れる謎に満ちた文字列や、ラッパの記号、悲惨な物語の演劇、そして”トリステロ”だったりする。これらは元恋人の正体について何かしらの意味を指し示しているようでいてとてももっともらしいのだが、肝心の意味するところはわからず、次々にエディパと読者を翻弄する。

 最終的には、それらの謎は解明されることなく、謎のまま放置されるのだが、これは単に著者が回収しきれなくなったということではないだろう。解説なども参照するに、これは排中律の問題だといえる。あるものにAという意味がある/ないという、二つの状態の存在しか認めないアメリカ合衆国的な考え方に、ピンチョンは疑問を投げかけているのかもしれない、ということだ。確かにアメリカ社会の裏を描いていると言われると納得できる。しかし、惜しむらくは(?)僕ら日本人には身近な話題ではないため、頭では納得できても、ピンときづらいということだ(もちろんそれによって本書が楽しめないわけではない)。

 また、ピンチョンの膨大な知識量にも驚かされる。「知のごった煮」というとメルヴィルの『白鯨』が想起されるが、あれは鯨に関するものがほとんどだった。だが、ピンチョンの小説には、物理学からいわゆるオタク・カルチャーまで、様々な知識が入り乱れている、真の「ごった煮」だ。僕個人こういう作風はすごい好みで、彼の小説をもっと読もうと思う。余談だが、最近ノーベル文学賞が発表されましたね。トマス・ピンチョンもよく候補になっていると聞くけどけど、アメリカの何とか賞を拒否し、取材に押し掛ける報道陣を嫌がりバスに飛び乗って山に逃げたという逸話(真偽のほどは定かでない)のある彼は、きっと拒否してしまうような気もしますね。

 

 最後になりますが、お久しぶりです。また一か月以上空いてしまった。少し思うところがあって、全記事の題名を変えました(そのときごちゃごちゃしてしまって順番が今までと変わってしまいました)。今までは(キャッチコピーもどき)―『書名』だったけど(わかる人にはわかると思うが、冬木糸一氏の「基本読書」の真似です)、めんどくさくなったので今後から『書名』(著者名)にします。よろしく。

『クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い』(西尾維新)

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 タイトルに特に他意はない。他意のないタイトルならばそれはタイトルというより「他意取る」ではないか、否タイトルから他意を取ったのは僕だからタイトル側からしてみれば「他意取られている」ではないかという向きがあるのももっともだが、とりあえずは、感想を書いていこうと思う。

 

 案外真面目にミステリしてたな、というのが読後の率直な感想で、というのもやはり読む前に「西尾維新だしなあ…」と思ってしまうことがある。しかし読んでみると、絶海の孤島、集められた人々、なにやら確執がありそうな登場人物たち、などなどいかにもミステリ然としたお膳立てに、死体の再利用(リサイクル)というトリック(申し遅れたが本記事もネタバレ有)ときた。言ってしまえばこれはたいして斬新なものではなくて、有名どころだとクイーンの『Xの悲劇』なんかはこれを使っている。かといって使い古されたという感じもせず、作者らしいクセのあるキャラクターとその語り口調に翻弄され、なかなか楽しめた。

 

 年を取ったせいか、シリーズものを読もうとするとすぐ疲れてしまい、あまり手を出さなくなってしまった。本当は、「ぼく」が戯言戯言うるさくなるのには何か理由があるのだろうかとか、玖渚に「いーちゃん」と呼ばれる「ぼく」の本名は明かされるのだろうかとか、哀川潤はこれからどう活躍するのかなど気になることはあるが、果たして続編に手を出すかどうか。森博嗣の小説なんかも同じ状態になっている。そういえば西尾維新森博嗣が大好きだとか……すると本作の「絶海の孤島」「天才」「死体再利用トリック」といったのは『すべてがFになる』と通ずるものがあるな、などとも思ったり。これまで「案外ミステリしてる」などと言ってきたがよく考えればこの小説はメフィスト賞受賞した作者のデビュー作だ。となれば初代メフィスト賞で自分の好きな小説を意識したパロディ的側面もあるのかもしれない。ちなみに、本記事にはこの作品のアニメ化に便乗してアクセス数を増やそうという側面がある。他意はありました。

 

 余談だけど、メフィスト賞ってヤバイよね。

『文学会議』(セサル・アイラ)

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  ラテンアメリカの小説家は、どうやらヤバイのが多いらしい。例えば、ボルヘス……くらいしか今のところ思いつかないのだが、これだけでも十分にヤバイだろう。それに加えてこのセサル・アイラである。

 『文学会議』は、同名の中編と『試練』という中編を収めているのだが、そのたった二つで、僕にとっての彼(はじめ彼か彼女かすらわからなかったのだが)の評価が「ヤバイ」となるには十分であった。

 

 さて、『文学会議』である。小説家でマッドサイエンティストで世界征服を企み冒頭でトンでもない財宝を見つけた「私」(そしてどうやらこの「私」は本当に「私」=セサル・アイラらしい、この時点でだいぶお腹いっぱいだ)が、世界征服のため完璧な人物のクローンを作ろうと試みて…という話なのだが、セサル・アイラの特徴である、無駄とも思える冗長な表現の嵐に、これをあらすじとしていいか少しわからない。「私」は完璧な人物としてカルロス・フエンテス(実在するこれまたラテンアメリカの小説家)を選び、彼のDNA採取のため文学会議に向かう。が、当然のごとく文学会議の様子は描かれない(そもそも「私」は行っていない)と、タイトルの意味をなきものにしようとするのはもはや清々しくも感じる。途中DNA採取に用いた虫への愛着脈々と何行にも渡って書いたり、結局採取したのはカルロス・フエンテスの絹のネクタイの細胞で、クローンを作成したら超巨大イモムシが出現!さあ大変街は大混乱に!という展開(怪獣映画…?)は、果たして笑わせにきてるのかよくわからなかったので、とりあえず笑っておいた。

 そんなこんなでカタストロフにスペクタクルがややこしく続き、なんやかんやで「私」は世界を救う。会議は一切出てこなかったが、怪奇な文学で、さらに文学というのを懐疑してしまう。

 

 「ねえ、やらない?」と、太った少女であるらしい「私」が二人のパンク少女に誘われる場面で始まる『試練』は、なにやら百合百合しい雰囲気かと思いきや、これまたぶっ飛んでいる。太少女(ひどい名前だがこれしか思いつかないので許してほしい)とパンク少女たちは場所を変え問答を始める。戸惑いながらもパンク少女のことを理解しようとする太少女、それにいら立つパンク少女。太少女の努めて理性的であろうとするところ、それが彼女らのお気に召さず、彼女らは理性からの解放を重視する。

 なるほど確かに理性的でありすぎると視野が狭くなるというのはあるかもしれない、などと少女たちの掛け合いを楽しんでいると、唐突に彼女たちはスーパーマーケットを襲撃し始めて僕は数十ページくらい読み飛ばしたかなと思ってしまった。そして炎に包まれるスーパーマーケット……三人の少女たちは夜の闇へと消えていく……。これはいったいどういう了見なのだろうか。スーパーマーケットを襲撃するにいたった過程がまるで理解不能。もしかするとスーパーマーケットは理性のメタファーで、先の掛け合いから理性から解放された少女を描いているのかとも考えたが、そもそもスーパーマーケットが理性とどう結びつくのかという問題がある。理性を売るスーパーマーケットなど僕は見たことがないし、文字が似たものでせいぜいパセリくらいしか売っていないだろう。

 訳者あとがきにある、「ねえ、やらない?」を表すスペイン語に関しての話はなかなかおもしろかった。

 

 よくわからない小説に感化されたせいかよくわからない感想になってしまった。セサル・アイラ、非常にぶっ飛んでて謎めいた気になる小説家である。

 

 

 

『逆行の夏』(ジョン・ヴァーリイ)

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 ジョン・ヴァーリイ傑作選である。ヴァーリイを知らなかった僕は、そのとてもきれいな表紙と円城塔の推薦文を一目見て即購入したわけだが、非常におもしろい短編、というよりは中編集だった。また、今回も今回とて普通に内容に触れるので、未読の方はご注意ください。

 

 ヴァーリイの代表シリーズである<八世界>シリーズから、『逆行の夏』『さようなら、ロビンソン・クルーソー』の二編に加え、『バービーはなぜ殺される』『残像』『ブルー・シャンペン』『PRESS ENTER■』 が収められている。読んでいてまず感じたのは、この六編どれをとっても「人間の身体」がお話で重要な役割を担っていることだ(ただ『PRESS ENTER■』は少し違う)。

 

 『逆行の夏』

 性転換が当然になった社会の話。テーマがあるとしたら「性」と「家族」で、このお話にはなるほどなあと思わされる。こんな簡単に性を変えられる社会だからこそ、性によらないものが見えてくるってことなんだろう。それにしても、水銀洞の描写がとてもきれいだ。めちゃくちゃ気に入っている。

 

 『さようなら、ロビンソン・クルーソー

 老いから逃げた主人公ピリが、逃げている自分と決別すると同時に、逃げる前の自分に戻るという不思議な構図の話。途中の、精神は高齢の老人が、童貞みたいに初々しくセックスに及ぶというシーンはともすれば滑稽でもある。

 

 『バービーはなぜ殺される』

 バービーに属する者はみな容姿が同じであるだけでなく、「わたし」と言えないなど、徹底した個性の喪失が本当に不気味だ。そして殺人事件の起きた理由は、個性を持つことをフェティシズムにするものの制圧だったという。個性を失ったからこそ、そういうフェティシズムを持ったというのは、なんとも皮肉。

 

 『残像』

 これはすごい話だ。本当に。全盲全聾の人のためのコミュニティを訪れたある男の話を描いているのだが、そこでのやり取りを、文字通り言葉で表現できないものを表現している(感想すら言葉にしづらい)。ヴァーリイは本当によくこんなことを考えたなと思う。男がピンクに目と耳を潰される最後のシーンは、ただ単に怖いと感じたが、これはいわゆるラブシーンだとも思える。ハリウッド映画によくある、主人公とヒロインが夕焼けをバックにキスするのと、本質的にはなんら変わりないのかもしれない。非常に官能的で、圧巻だった。

 

 『ブルー・シャンペン』

 今話題のVRをさらに拡張したような、経験したときの感情までも得られるテープをめぐる話。ただ恋に落ちた瞬間の感情はテープにできないようだ。体が不自由な女優ギャロウェイは、簡単に言うとテープを利用したAV女優みたいなことをしているわけだが、クーパーとの恋に落ちた瞬間を売り飛ばす。なんというか、クーパーは典型的なダメ男みたいだ。二人の関係が、非常に苦々しい。

 

 『PRESS ENTER■』

 これだけ少し異質で、テクノ・スリラー風。ビクター、リサ、オズボーンがコンピュータの画面に何を見てあんなことになったのかはっきりとはわからないのだが、きっとネットワークに対し僕らが感じてしまう根源的な恐怖、みたいなものだと思う。

 

 さて、感想は以上だが、今回はあらすじみたいなものを極力短くした。個人的にはなるべく書かないほうが気楽でいいな。これからもこうしよう。ところで、ヴァーリイの<八世界>シリーズ全短編は創元から出ており、最近長編の「へびつかい座ホットライン」も早川から出たらしい。とてもおもしろかったから読もうと思う。

 

 終わりに、身体とSFについて

 SFは身体をテーマに扱うことがよくある。しかしふと、ヴァーリイは少しそれらとは違うのではと思った。というのは、(これは僕の感覚なので実際にはどうかは定かではないが)普通身体をテーマにするとなると、SFは「身体の疎外」を扱いがちであろう。例えば、身体を機械じかけにして脳(あるいは精神、というか意識というか)だけ残し、これは人間かアンドロイドか?みたいな。一方でヴァーリイの作品群では、確かに人間の身体性は重要なテーマにはなっているが、あくまで身体が身体のまま変化している。身体を捨てて記憶をネット上に保存して延命したり、ヴァーチャル・リアリティ内のアバターとして、現実の自分と異なる自分を生きていたりするのでもなく、技術を用いて実際に身体を若返らせたり性を転換したりするのだ。そう考えると、書かれたのはだいぶ昔ではあるけれど、今までのSFより新鮮な感じさえする。果たしてヴァーリイがこれらを書いたこの時代における、身体をめぐる思想の潮流がどんなだったか僕は知らないけれど、少なくともヴァーリイは、人間の身体というものを重く見ていたようである。しかもおかしなことに、これもまた僕個人の感覚なわけだけど、身体を機械化したりするSFよりもよっぽど「身体」という概念をぶち壊しているようにも思える。つまり、「身体の疎外」系が「身体というものは人間にどれだけ寄与しているのか?精神との関係は?」という、一個人内部のことを主に描くのに対して、ヴァーリイが描いたのは「身体がこんな風に変わってしまったら、人々はどうなってしまのか」という、身体変化による社会そのものの移り変わりである。もちろんどちらのタイプもこれからたくさん読みたいけれど、近年ヴァーリイみたいな作品が目立っていないのは、もしかすると僕らの身体がアンドロイドの夢を見ているからかもしれない。良い感じのオチがついたからそれではまた。